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善隆寺の歴史
石部宿 法然上人
歌川広重『東海道五十三次・石部』 法然上人像(京都・知恩院)
善隆寺は、旧東海道石部宿の中程、阿星山から続く丘陵の北端になる字東谷(ひがしだに)、戦国時代石部城があった通称「とのしろ」に位置します。石部山専嶽院(せんがくいん) と号し、浄土宗に属します。本尊の阿弥陀如来は平安時代の作で、湖南市指定文化財です。『善隆寺記録』によれば、元々は禅宗でしたが、断絶していたのを石部家清が天正元年(1573)に再興し、浄土宗に改めたということです。再興する際、石部家清は父の戒名「善現禅定門」、母の戒名「妙隆禅定尼」の一字を取って「善隆寺」としたそうです。

石部家清は、近江国南部を支配した戦国大名六角義賢(法名承貞)の旧臣です。六角義賢はその居城観音寺城を織田信長に攻め落とされた後も抵抗を続け、最後は石部城に天正元年9 月から翌2 年4 月まで籠城した後、終に力尽き伊賀へと落ちていきました。信長はようやく近江を平定することになりましたので、この石部城での戦いが、近江の戦国時代にと終焉といえます。石部家清は、その後も当地に残ったらしく、天正12 年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉の後方攪乱を狙う徳川家康から出陣要請が出ています。

慶長3 年(1598)11 月、家清は伝弘法大師筆の六字名号と寄進状を当寺に納めています。この寄進状には、上部にかつての主君六角義賢の死を悼んだ歌が記され、下部には一族縁者の戒名・俗名・没年月日等が記されています。創建当時の善隆寺を知る上で貴重な史料で湖南市の文化財に指定されています。

善隆寺を創建した石部家清は、その翌年、慶長4年9 月15 日に亡くなっていて、戒名は「専嶽院殿隋誉順故安心大居士」といいます。善隆寺の院号はここからきています。創建当時の善隆寺は、現在地ではなく、もっと東海道に近い場所にあったそうです。しかし町場の火災に類焼する危険があったので、荒れ地となっていた石部城の跡地を膳所藩主本多氏から拝領し、貞享元年(1684)に移転し、それ以来石部の町を見守っています。
寺号額について
寺号額 享保4 年( 1719 )、人形寺で有名な京都の宝鏡寺宮( 通称百々御所) 第21 世ご門跡である理豊女王( 後西天皇の皇女)から、菊の御紋の入った寺号額、菊の御紋の入った大提灯2張りが下賜されています。「善隆寺記録」によると、檀家でもあり、膳所藩の御典医でもあった村治氏が願主となり、京都小川の報恩寺塔頭光殊院の取次で実現したとあります。

残念ながら提灯は現存しておりませんが、現在でも理豊女王筆の「善隆寺」という寺号額が本堂内正面に掲げられていますし、また理豊女王のお位牌をお祀りしています。記録ではその後も善隆寺から宝鏡寺宮へは毎年年始の御礼に参上していましたそうです。
現在の本堂について
現在の本堂は、今から約200 年前に再建されたものです。欅作りでどっしりとした造りになっています。平成9 年に大改修されましたが、柱はそのまま200 年前のものを利用しています。いい材料を使えば長持ちするもんですねぇ。
法然上人二十五霊場
「二十五霊場」というのは、浄土宗宗祖法然上人に縁のあるお寺を巡拝するものです。生誕の地、岡山県の誕生寺を第1 番札所とし、総本山知恩院を満願の25 番札所とします。
この霊場は江戸時代に生まれたものですが、当時は交通機関もなく歩くより他ありませんでした。そのため地元でも巡拝できるようにと、全国各地にご当地二十五霊場が作られたのです。ここ甲賀の地にも江戸時代からありましたが、永らく途絶えていたものを、法然上人800 年大遠忌を契機として復興することになりました。毎月25 日のご縁日が参拝日となっております。(事前予約制)

<参考>
甲賀組第一部法然上人二十五霊場
本霊場